しまづる浜町薬局(明治座グループ) 大野 雅久
■就職先で信濃詣
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鳥居薬品は昔も今も日本橋本町である。新入社員の教育研修を浜町からの徒歩通勤でこなし、長野県の担当についた。東京から月次の出張で旅館を泊まり歩いて一周する。MRをプロパーといった、高速道路のない昭和41年である。長野県は東信・北信・中信・南信と四つに分けられ、文化や風土を異にする。顧みれば“信濃詣”の月例版を4年近くこなした。
とりわけ木曽谷から伊那谷へ渡る、南信は遠かった。谷の行き来は最果てを往く感があった。中央アルプスの南端が背骨に当たる、清内路峠を越える。峠道は狭く曲がりくねった砂利道だ。清内路の柔らかい響きは、濛々たる土煙に変わった。
隔たったまま40年以上が経った。その歳月がいとも簡単に木曽谷から飯田市へ抜けさせた。あの難行苦行の道行きはどこへやら。拍子抜けの変貌に浦島太郎の心境だ。木曽谷の寝覚めの床で蕎麦をすすりながら、今しがた一望してきたから尚更だ。
伝承によれば浦島が辿りついた最後の地が、寝覚めの床である。この河原で戒めを破って玉手箱を開けた。700年後の世界へ。一変した現実にうろたえるばかりか。私も任地を第二の古里と感じた信州で、浦島になりかねない。
中山道の木曽路は11宿。中でも古きままの奈良井や妻籠は一見の価値がある。馬籠は木曽路の最南端に位置し、南西に傾斜した尾根筋にひらけている。東南方向には中央アルプスの恵那山が堂々と構え、雄大なご来迎が予感できる。
馬籠は島崎藤村の生誕の地でもあった。“夜明け前”を読んでいない身でおこがましいが、間違いなく土地のありようは“夜明け前”だ。藤村と土地勘を共有した、生意気な感動がふくらんだ。
藤村は「遠き島より流れよる 椰子の実―」や「小諸なる古城のほとり―」であるが、私の藤村は“惜別の歌”であった。中央大学の場合「遠き別れに耐えかねて……」が学生歌である。コンパやゼミ、お開きの締めに必ず歌わされた。小林旭の昭和36年の歌であるが、疑問に思いながらも軽く合わせてきた。中大では蛍の光以上の重みがあった。
■日本橋本町の今昔
卒業と同時に日本橋本町に就職した。最初の勤め先も第二の古里である。その頃につながる日本橋区の古い火保図(別掲[PDF])を編集してみた。
昭和22年頃から30年前後の間に作成された。火保図は火災保険特殊地図といい、保険料率を定めるための地図らしい。
本町図を玉手箱に触れる心地で見た。私の本町時代との比較では、多少の拠り所はある。しかし現在(平成17年版の地図)と比べれば驚愕だ。変わりようは浦島もついていけないほどだ。50060年間の移りを三つの視点から眺めてみると――
第一は“火保図”ベースの遠い過去である。
本町3‐3に鳥居薬業の名称が記されている。何かの間違いではないかと思ったが、鳥居薬品の前身である。鳥居薬業は明治の最終年(1911年)に本町へ進出した鳥居商店を昭和24年に吸収した。私の入社は昭和41年、当時はなお卸問屋の名残があって、全国の卸さんのご子息を研修する習いがあった。同期の入社に三鷹の酒井薬品の忠男氏(平成15年急逝)がいた。
私は昭和45年に本社業務部に移り、日本製薬団体連合会の保険薬価研究会を担当したことで、本町を横行できた。昭和53年に鳥居を退職し、日本橋浜町の家業を継いだ。一方で引き続きパップ剤協議会0外用剤開発研究会に関わったので、私の本町時代は仮に昭和の時代で区切るとしても二十数年になる。
火保図に戻れば、鳥居薬業と同じ区画で、昭和通りに面して中外製薬が記されている。その南二0三丁目に、山之内製薬と藤沢薬品が並んでいる。武田薬品と田辺製薬が数カ所に見えるのは、薬の街として当然だ。昭和通りの反対側に眼を転ずれば、本町三丁目4番に塩野義製薬である。 興味深いのは、日本橋室町四丁目2番に日本新薬が、また富山化学工業と富山会館が並んで見えたことである。さらに本町三丁目1番は全部で14件の区割りで、三共の農薬部と第一製薬がご近所にあった。
第二は私の本町時代、近い過去である。
昭和36年の国民皆保険を契機に、医薬品産業が急速に成長していった背景があった。中でも40年代は総じて生産額が二桁、時には20%を超える高度成長であった。
就職後の早い時期に、中外製薬の移転話を聞いた。跡地に11階建てのビルが建ち、気がついてみれば興和新薬が入っていた。東京薬業工業会のミーティングで何度も出入りしたが、今回、定礎から昭和43年10月の竣工を確認した。興和新薬の所有か否か気になったが、薬業界の視点であるから敢えて詮索しない。中外製薬は昭和43年以前に本町から転出した。
三丁目1番は三共が農薬部を東京支店に衣替えしていた。その隣が日本新薬のビルである。鳥居薬品と裏口同士で接していたので、駐車場を通り抜け、保険薬価研究会の打ち合わせと称して頻繁に行き来した。
塩野義製薬は静岡銀行と共同でシオノギビルを再開発。昭和55年,シオノギ渋谷ビルに移転した。火保図に何カ所か見えていた田辺製薬も、分散していた東京事業所を千代田区三番町に統合した。
本町二丁目7番(三共、日本新薬の反対側)は、既に4区分にスッキリしていた。昭和通りに面した藤沢薬品から東京田辺製薬、大日本製薬、そして万有製薬である。さらに道を隔てた西(中央通り寄り)に武田薬品のビル、東京薬業会館が整然と並ぶ製薬企業のファーム街である。
第三が平成17年版の地図と比較した現在である。
鳥居薬品は大きく変わった。昭和54年、鳥居宏氏(専務)が50代半ばで肝臓癌により逝去した。仕事の神髄の体現者であった。その直後から鳥居一族の経営は米国メルクに移り、さらにアサヒビール、日本たばこ(JT)へと三転した。世の移ろいを痛感させられた。当時4階建てだったビルは周辺を取り込み、平成2年に9階建てトリイ日本橋ビルに替わった。
三共は平成6年に新社屋を竣工し、銀座にあった本社も本町に移転した。14もの社名が見えた地番も大半が三共ビルで整備され、平成17年に第一製薬との統合がなった。火保図の例に従えば、地縁があったのだ。
三共の隣り日本新薬は、平成16年に日本橋高島屋の隣り「日本橋さくら通り」に栄転した。玄関ホールのステンドグラス“十三参り”は京都の会社を誇示するようだ。見惚れる見事さがある。
中央通りからのファーム街は超高層のビルが要となって様変わりした。平成17年7月、千疋屋総本店も飲み込んだ日本橋三井タワー(39階)の竣工である。中外製薬はこの要に本拠を移している。確か平成の初めに中外製薬を訪ねた時は、八重洲の中央通り(中央区京橋二丁目1‐9)であった。その後、平成13年にスイス・ロシュ社が50%以上の株式を取得し、傘下に入った。「業界の意外だ」は時代の移ろいを現している。
反対の昭和通り沿いは、アステラス通りに変身である。平成17年の藤沢薬品と山之内製薬の合併だ。「アステラス」はラテン語やギリシャ語などから、二つの星(大志と先進の星)を表現し、日本語の「明日を照らす」につなげた。私には「アマテラス」と聞こえるのは、少々浦島太郎的現象であろうか。さらに大日本製薬のあとに帝國製薬の看板だ。わが目を疑って見直した。パップ剤専業的企業から、飛躍を込めた本町進出である。
ついでを加えれば、かつて(昭和40年代の中頃)久光製薬が昭和通り本町二丁目交差点の角(火保図の本町1‐9塚本S)に所在していた。その後の足取りからすれば、お伽話の範疇かもしれない。本町から新宿区の初台へ、次いで品川区の五反田へ。そして平成12年には東京駅・八重洲南口のパシフィック・センチュリープレイスに東京本社が移っていた。わが目は動転した。八重洲側は中央区だ―私の思い込みがあった。事実は千代田区丸の内1丁目と知った。薬屋も丸の内へ。久光製薬の何転もの変貌と成長に、パップ剤に関わった一人からすれば浦島太郎に近い。
■馬籠がつないだ世代
平成17年、馬籠が長野県から岐阜県に変わった。県を越えての合併に唖然とした。「藤村が信州人でなくなる……」で木曽谷へ誘われた。加えて“惜別の歌”があった。作曲者も藤村と同世代の人と、40年来の先入観を持っていた。ところが、藤江英輔氏は1926年(昭和元年)生まれであった。これを文芸春秋の対談で知ったからである。
作家北村薫との『自著を語る』対談によると、バイオリンを弾けた藤江氏が、昭和20年の1月頃に作曲した。終戦間近な頃、藤江氏も学徒として東京板橋の陸軍造兵廠に動員され、学友に送付される赤紙(召集令状)を配布していた。そして出陣する仲間を見送った。「遠き別れに 耐えかねて……」見送る人たちが、ごく自然と歌いはじめた。藤江氏によって、姉妹の別れ(原典)は恋人や学友に変わった。中大は公式な学生歌として昭和24年レコーディングした。
藤江氏は私と17018歳の違い。仕事を体現してみせてくれた鳥居氏と同じ世代だ。一世代は30年だから親よりはチョッと年下、思い返せば大学の教授陣や仕事上の上司だ。中間をつないでくれた世代ではないか。今日ある私を育んでくれた、畏敬の人たちである。
馬籠の宿は復元だが、昔風の中に街づくりの知恵が随所に生かされ再興された。ほぼ中央に藤村記念館があって、遺作「東方の門」に出合った。藤村はこの執筆中、脳卒中で倒れた。逝去したのが昭和18年8月22日である。記念館限定の遺作は116ページものである。「東方」とは西洋から見た日本を指す。江戸から明治時代へと移り変わっていく様をとらえた。藤村の史観書であるが、浦島の嘆きではないか。
加えて昭和18年、誕生直後の40日ほどが、私の時刻表と重なっていた。私の浦島化は藤村によるものだったのか。移ろいは「人の世の常なるを―」浦島とのご縁も吹っ切れた。
浜町河岸から見る「西方」日本橋三井タワー方向は眺望が一変し、富士山の景観も消えた。容積率の緩和で東京駅周辺のビルは、なお異常増殖しつつある。林立するクレーンを眺めつつ私は腰を据えた。「高層ビル群は常なるを―」、史観が定まった。